党内民主主義と意思決定の観点からの「排除」や「しがらみ」の問題 -選挙用のアピールを超えたその先
- 選挙戦が明らかにした「意思決定プロセス」の重要性
今回の衆院選において与党は過去5年間の外交・経済分野における実績を強調したのに対して、新たに出現した野党の主張の中には政策そのものよりも党内における政策・意思決定プロセスにに関するものが多く見受けられた。これは都知事選以来小池都知事が自民党(特に自民党都連と都議会)に対しておこなった「政策・意思決定プロセスが不透明」という批判と軌を一にしている。
希望の党の公約前文には以下のような文がある
「国政を透明化し、常に情報を公開し、国民とともに進める政治を実現する。既得権益、しがらみ、不透明な利権を排除し、国民ファーストな政治を実現する。」
http://www.sankei.com/politics/news/171012/plt1710120004-n1.html
これらの意思決定プロセスの変革を野党が訴えるのは、その立場上ある意味当然かもしれない。また有権者にとっても「意思決定プロセス」は会社でも家庭でも身近な問題であり多くの場合社会の不満の矛先でもある為、関心の高い分野であっても不思議ではない。政治家はときにその存在が象徴的になるため、実際の執政上実は大きな影響はなくとも「女性初の都知事」や「組織の後ろ盾に頼らないリーダー」といった存在に有権者は感銘を受けるし、そのような社会変革のシンボルとしてリーダー像を求めることも多い。
総選挙の結果は与党の勝利であったものの、都議選などで示された自民党に対する厳しい民意も鑑みながら政党の意思決定プロセスに関して今一度どのような形態がより理想的なのかを考えたい。
- 排除による純化の狙い
まず選挙における風向きを変えるきっかけになったと言われている「排除」の考えを糸口に考えていこう。
選挙結果が出た後で希望の党の関係者より「排除」という「言葉が強すぎた」という反省が出ていた。「語彙の選択だけが悪かった」という立場は、希望の党が保守二大政党の片翼を担うことを目指すのだから民進党の左派の合流を認めなかったこと自体は正しかったという考えである。他方で「排除」の行為そのものに対して否定的な意見もあり、この場合民進党の全員の合流を認めるべきとの主張である。
ここでは語彙の選択の良し悪しではなく、実際に民進党のリベラル勢力とされる一部の勢力の合流を認めなかった判断自体の影響について考える。
そもそも、民進党の全体を受け入れなかったのは民進党が名前を変えただけという批判に対するイメージ戦略という点もあっただろうし、経験豊富な代表経験者などの党内での影響力を排除したいといった権力闘争の一面もあったかもしれない。しかし最大の理由は、ある意味民進党の最大の負の遺産と言える、改憲問題や安全保障問題といった重要政策に関して党内の意思統一が取れないことにより、対案提示もままならず政権担当能力を著しく欠如している状況を打破しなければいけないことだったと思われる。
民主党政権からその問題は指摘されていた「決められない党」というイメージが低迷する支持率の一因であった。今まで自らを「保守」に位置付けてきた小池代表とチャーターメンバーとしては急進的左派を受け入れてしまうことは選挙のために「しがらみ」を受け入れることになり「しがらみ打破」を訴える上でも大きな障害になる。
このような状況を考えると、実際は希望の党にとって民進党を丸ごと受け入れるという選択肢はなかったような印象を受ける。そのためか、この決断に関わった人たちは「言葉の選択を誤った」というイメージ戦略上の失敗はあったものの、排除行為そのものは必要だったと正当化するだろう。そして「行為自体」が正当化されれば彼らの中では「踏み絵」と称される政策協定書も正当化されるのであろう。逆に政策協定書などを通じて重要政策において一致する作業を怠れば、民進党の「決められない党」という体質を受け継いでしまう可能性がある。
- 純化が本当に正しい解決策であったか?
この民進党と希望の党の合流に伴う政策合意、公認者の決定という一連の意思決定において何が問題であったのだろうか?最初にも述べたが、政策そのものではない「意思決定プロセス」が関心を呼ぶのは我々は日常生活で様々な意思決定プロセスの下にあり、ときには不満を抱えながらも我慢しその意思決定に従ったりしているのことが挙げられる。象徴的な存在として支持を得ようとしている新党が「独善的」「排他的」といった意思決定プロセスを提示するのは有権者の失望を買う。そしてこの印象は単純に「排除」という言葉を使ったというのが問題ではなく、実際に排除を実行に移したことにより「排除された側」からの訴えにより有権者に伝播するので、排除行為を実践した時点で多くの有権者の離反は避けられなかったと思われる。
他方で排除による純化を経なければバラバラ体質を受け継ぎせっかくの新しい党が「決められない党」になってしまうという懸念があったはずである。
しかし実際は「排除」も強権的と捉えられた政策協定書も「決められない党」の体質を変えることはできない。
選挙後に政策協定の内容を事後的に変えようという動きが出てきたことは想像を超えていたが、そもそも安全保障政策での一致に基づいて選別を実施しても他の政策で意見が割れればその度に「決められない党」に逆戻りしてしまう。
本質的な問題は党内議論を重ねても自分に都合の悪い結論は認めない(認めなくてもいい)という党文化そのものであり各議員が有している考え方なのである。バラバラ行動が許されるという文化をメンバーが共有し続ける限り、党として統一された行動をとるということは不可能なのである。
このような党文化や歴史を有する組織の人間に公認を与えないことや協定書への同意を強要したところで、その後一つの組織として一致団結して行動するなどということはなく「独裁」「専制的」といった批判・不満が党内で噴出するだけである。
- 価値観が多様化する社会における党内の政策統一
しかし、実は価値観が多様化する現代社会では全ての政策で一致することは特殊なイデオロギーを支持するより小さい政党では可能かもしれないが、幅広い支持層を持つ主要政党(を目指す党)においては現実的には難しいのではないだろうか。この場合党内には幅広い価値観を有する構成員を有しながら、その時々の国の置かれている状況を勘案して党の統一見解を決め、一旦党として決めた事項に関しては党員は従うという文化が理想的である。
皮肉な話であるが、より理想的な意思決定プロセスは自民党においてみられる「内部でしっかりと議論はするが、組織として決定した事項に関しては組織の構成員は従う」という党内文化を根付かせることでは無いだろうか?小池代表も選挙後の両院総会で思わずそのような感想を述べたようである。
「小池氏は民主党政権の代名詞になった「決められない政治」を意識して「自民党なら議論して決めたら従うんだ」」http://www.sankei.com/politics/news/171026/plt1710260030-n1.html
- 「決めたら従う」組織文化に必要な土壌
このような組織文化、構成員の共通認識(コンセンサス)を得ることは一朝一夕にはできない。このような組織文化を支えるために必要な条件が幾つかあるからである。
- 必要条件の一つはに意思決定プロセスにおいて適度に構成員の意見が反映されるということである。これにはボトムアップで意見を上げれるなどの幅広い意見を吸い上げる仕組みが必要である。
- また少数意見に配慮するために時には全会一致を原則としたり、納得してもらうために根回しや時間をかけた交渉などを丁寧に行うことも必要となる。
- さらに組織としての安定性、一貫性も必要条件である。組織が将来に渡り維持されていることが担保されないと、意思決定の過程において妥協する意味がなくなってしまう。組織が決定に関して将来においても責任を持てることが各構成員の事後の判断に影響する。
- そして妥協という形で意思決定において貢献してくれたことに対して他の事項に関しては逆に妥協してもらうことにより自分の目指す他の政策を実現できる「政党に属するメリット」があるという希望が重要である。
これらの必要条件ゆえに「決めたら従う」という文化には別の問題を孕む可能性がある。
- 幅広い意見に配慮するので意思決定に時間がかかる。
- 少数意見及びボトムアップでの意見の汲み取りにも配慮するのでリーダーの意思一つで決定できない。
- 「内部での議論」において誰かに妥協をしてもらう必要があるので内部の議論を非公開にしないと難しい。議論のプロセスを逐一公開するとそれぞれの立場で妥協に対する批判を意識して、反対を貫くこと自体が目的化してしまい妥協点を見いだすことができない場合がある。これらの制約のため「意思決定の透明化」が難しい時がある。
- 意思決定において単にリーダーの決定や多数決で決めるのでなく党内コンセンサスを得ることが重要なので、意思決定を導くためには根回しに長けていることや属人的信頼を得ているなどの特殊技能が必要であり、若手や新参者が(例えある程度の地位に抜擢されても)活躍しにくい環境になってしまう。
- 組織の継続性、一貫性が重要なため「革命的」に物事を進められない。人事等でもある程度の順繰り、論功行賞が実施され若手の抜擢などが阻害される。
- 自民党的体質の功罪
驚くことに都知事選以降批判にさらされた自民党の「古い体質」という問題の一部は党内での意思決定方法に起因している部分があり、一方でそれらの多くは「決めたら従う」という党内文化を根付かせる役割も担っていることがわかる。
自民党の意思決定方法に反発しその負の部分を否定した小池氏とその周辺は自民党の意思決定過程へのアンチテーゼとして、情報公開、透明化、スピード感のある意思決定、若手・政治未経験者の登用などを主張し「古い組織」を否定する「革命的」手法を取る方針であったため、彼らの運営する党では「決めたら従う」という文化は根付き難い可能性が高い。
実際「都民ファーストの会」でも「希望の党」でも「決められたことに従う」ことが今後も「自然な形で受け入れられる」ことは実際は非常に難しい状況である。都民ファーストにおいては代表と一部の側近による独裁的な運営で一部都議の離反を招き、希望の党においては「排除」で政策的な純化を図ったにもかかわらず、党内の納得は得られず結局政策のUターンを余儀なくされ「決められない党」に代表自身が不満を述べる状況である。
党内の意思決定方法は「独裁」と「何も決められない」以外に「組織への信頼に基づき、構成員は決められたことに従う」という方法があり、その党内文化・意識を定着させるにはそれ相応の組織作りが必要である。
一方でこの組織作りが実践できている自民党においては、その運営形態ゆえの問題が発生しやすいため改善のための不断の努力が求められる。SNSなどを通じた情報発信に関して改善の余地があることはおそらく党内でもある程度の危機感を持って共有されている。また伝統的な組織的支持層以外の無党派層へのアクセスにおいても苦戦している感は否めない。若手や女性の抜擢と育成を同時におこなっていかないと、象徴的存在としてのリーダーを輩出できなくなってしまう。
一連の「古い自民党」に対する批判は、その体質の持つ大きな長所(「決めたら従う」党文化に必要な組織形態であること)を軽視したものであり、今後これらの「功」の部分に光が当たれば必然的にやわらぐのではないかと思っている。
一方で小池都知事が提示した自民党が抱える党内意思決定にまつわる諸問題は、その体質上発生しやすい負の部分に対する指摘と認識した上で、謙虚に不断の改善をおこなうことが有権者の投じた一票に込められた思いに真摯に対応することだと信じている。