危機管理とゼロリスク:三浦瑠麗氏の「スリーパーセル」の危険性の主張について
国際政治学者の三浦瑠麗氏のテレビ番組におけるテロリストに関する発言に対する批判とその後のブログにおける反論を読み、リスク管理や危機管理と政策判断について考えてみました。
テレビでの発言とそれに関するネットなどの反応についての記事 –> こちら
三浦氏のブログ上での反論 –> こちら
まずは上記のブログの内容を簡単にまとめてみましょう。
3段落目から「スリーパーセル」が登場します。
まず三浦氏の予測として
「(米国の)先制攻撃も100%ないとは言いきれませんが、その可能性は限りなく小さいと思っています。(中略)最大の理由は、単純に犠牲があまりに大きいからです。米軍の被害、北朝鮮による報復が予想される韓国や日本における米国民間人の被害、そして、同盟国である日韓の犠牲です。」
テロリスト(「スリーパーセル」)に関してはそもそも「先制攻撃した場合の報復の一部」という視点から指摘されています。さらに自らの主張としても米国の先制攻撃に反対する根拠と述べています。
「いずれにしろ、発言の趣旨は、アメリカがNPR(核態勢の見直し)を公表し、小型化した核兵器の先制使用を辞さない方向にかじを切ったけども、スリーパーセルの危険性があるので北朝鮮に先制使用してはならない、ということです。」(上記記事中のインタビュー)
まとめると「米国は先制攻撃しないだろうし、するべきでもない。テロを含む報復による犠牲が大きいから。」ということです。
ここまでは三浦氏自身の予測と見解なので見解の違いからの批判はあったとしても、問題発言と非難される類ではありません。
再び三浦氏のブログに戻りましょう。
安全保障は確率論の世界です。国の安全には100%ということはあり得ないからです。専門家は、リスクの可能性を1%でも減らし、危険に対する対応力を1%でも増やすために日々努力しているのです。
だんだん難しくなってきます。ここでの「確率論」とはいわゆる数学の「統計・確率論」で学ぶような確率分布に基づいて、ある事象の確率の数値を推定するというものだけでなく、より広い意味での「不確実性の制約のもとでの判断の拠り所となる確率」という意味だと理解するべきかと思います。つまり確率を正確に数値化することができない中で、帰納的にリスクの大小を推定するような「確率論」も含むということです。
そのような安全保障の営みを可能とさせるためには、専門家に対してあらゆる事態について想定し、テーブルに乗せる裁量を与えなければなりません。ミサイル防衛についても、原発警護についても、100%安全ということはありません。
「過去に経験したことのないテロに対する備え」などは過去の統計データによるリスクの類推ができません。このため「専門家」がリスクをより小さくするように努力はするが、ゼロになることもありません。
ここまでは納得できる議論です。
国民には、どうして安全と言えるのかと問い続ける権利も義務もあるのです。同様に、スリーパー・セルが日本に存在することとも、向き合わないといけないのです。
ここら辺から少し疑問が出てきます。国民には安全を問う「権利」はあっても「義務」まであるのでしょうか?
国民一人一人は人生において無数のリスクと既に対峙し対応しています。個人が抱える人生におけるリスク以外に、社会基盤におけるリスクを分析し対策を講じるというのは大変非効率です。
治安や安全保障もそうですが社会基盤に対する「安心」というのは「国が専門家集団である行政を使ってリスクを許容できる範囲内に収めるている=安全な状態にある」ということを国民が信頼していることにより成り立ちます。
これは決してリスクがゼロになることではなく、専門家の判断として「許容範囲内」にまで小さくなっているということです。
多くの場合人々が不安になるのは「リスクそのもの」に対してではなく「リスクを許容範囲内に収められていないかもしれない」と国や行政に対する不信感を抱いているときです。
一度行政に対する不信が発生してしまうと、数々の社会基盤に対して国民が都度リスクを分析し対策を立てることになり無駄に非効率な社会になってしまいます。
本来であれば国民は社会が内包する無数のリスク全てに関しての「安全性」吟味する義務も必要もなく、国や社会基盤を安全に運営してくれる政府を選挙を通じて選ぶことにより相当程度の「安心」を得ることができるはずなのです。
「テロリスト」の危険性もリスクが許容範囲内に収まっているのであれば、ことさら国民個々人が「向き合う」必要はないのです。「発生確率がゼロではないが許容範囲内のリスク」と国民全員が一々全部「向き合う」というのは社会として不可能です。警鐘を鳴らすのであれば、それはリスクが許容範囲内を超えている場合でしょう。三浦氏の説明は「リスクはゼロでない」に留まっており「許容範囲」を超えているという明確な根拠は見受けられません。
「リスクがゼロではないから問題だ!」という主張は提供している情報が少ない反面人々は大いに不安になる可能性があるので、不必要に多用すべきでないメッセージであり「不必要に不安を煽る」と捉えられても仕方ない面があります。
東京都の市場移転延期問題も「リスクがゼロじゃないから安全だが安心できない」という不安を煽る手法で正当化されました。このように「リスクがゼロじゃないから安心できない」というメッセージで不要な不安を呼び起こし自らの政策を正当化するのは非常に問題のある政治手法と言えます。
「ゼロじゃないリスク」は性質上その実態が掴みにくいものです。テロリストが近くに潜んでいる可能性は決してゼロではない、と言われたところで不安になる以外なにができるのでしょうか?わざわざ不安を喚起するのは「リスクが許容範囲内に管理できていない場合」であるべきで、具体的には警察や公安によるテロリスト対策が不十分だということになります。
三浦氏の議論は今後のテロ対策の可能性にも及びます。
テロリストがいると思えば、当然テロ捜査をしなければいけないわけで、その過程を通じて、テロリストがいない社会よりも人権保護に関する懸念が生じうることは確かでしょう。だからこそ、安全だけでなく人権保護の観点をバランスさせながら重視していく必要があります。安全の確保は人権との緊張関係を一切孕まないと言ってしまえば、それは嘘をつくことになりますし、いざ有事には反動として極端な人権侵害が行われるはずです。人権保護と緊張関係があるからと言って、国家の安全にとって重要なリスクを国民に見える形で議論することを躊躇すべきとは思いません。
三浦氏がテロ対策強化を通じて人権保護に関する懸念が生じうることに言及するならばなおさらのこと「リスクはゼロではない」だけでは不十分で、現状において行政の対応が間に合っていなく「リスクが許容範囲を超えている」根拠をもう少し明確に列挙しないとなかなか建設的な議論にならないと思われます。
最近「情報公開」や「見える形で議論」などにより、このような「ゼロリスクでない事象」について政策判断を民意に委ねるような考えがありますが、このような事象に関しては政治家が行政及び専門家の英知を結集して最適な対策を立てリスクをできる限り小さくすることが重要であり合理的で正しい姿だと思います。
行動経済学などでも議論されますが、発生確率の低いが被害が大きい事象に対するリスク回避などに関する判断ではバイアスがかかり合理的な判断ができないことが多々あります。ましてや発生確率が「ゼロじゃない」程度にしか認識できない事柄に対して国民はどんな議論ができるのでしょうか?
「リスクが許容範囲を超えている」のであればもちろん、それに対する対策を施さなくてはいけません。そしてその対策において人権保護に関する懸念が生じるのであれば、その政策の正当性を議論をするのは当然重要です。その議論をするために国会があり、議員が行政に対して必要な質問をし政策の是非を吟味するのでしょう。このように国会における議論は当然必要ですが、その援護射撃をするために不安を煽り世論を誘導するというのは「安全保障を議論する」というのとは違う気がします。