カトリーヌ・ドヌーヴ氏含む女性100人による仏紙ルモンドへの寄稿について
仏女優カトリーヌ・ドヌーブ氏ら、仏女性作家ら約100人は連名でフランスの最高級紙「ルモンド」寄稿し、世界各地で相次ぐセクハラ告発について意見を述べました。
日本では今日現在まだ全訳はされておらず、抜粋を報道しているため若干の誤解も生じているようです。文化の違いから日本の読者にとってはその主張についてもわかりにくい部分も多々あります。
世界中で大きな反響を得ている記事なので、近く英訳や和訳も出てくると思われますがとりあえず私が読んだ範囲で思ったことなどをブログに記しておきます。
日本での報道の一例 こちら
ルモンドに寄稿された原文(仏語) こちら
NYタイムズ紙による関連記事(一部英訳あり) こちら
日本の一部では、#metoo運動へのカウンターと捉えたり、現代フェミニズム運動への反動、男性擁護などと捉えられているようです。そのように読めなくもないのですが、原文全体を読むとむしろ「自由と権利と規制」をどのように捉えるかが重要なポイントと読めます。
寄稿文のタイトルは”Nous défendons une liberté d’importuner, indispensable à la liberté sexuelle” で、上記のロイターの訳は「我々は性的自由においてとても重要な、言い寄る権利を擁護する」となっており、大前提として「性の自由」の重要性を挙げています。
#metoo運動が行きすぎて「女性は守られる対象、弱い存在」としてしまうことは、戦後の欧米における女性運動の成果の一部である「性の自由」の権利を制限することにつながる懸念を表しているのです。これはキリスト教、特にカトリックの倫理観の強いフランスならではの事情があります。伝統的にカトリックでは「性を楽しむこと」は否定的に捉えられる傾向があります。「性の解放」はこのように古い宗教的価値観からの精神的支配を取り除くための戦いの成果という側面があります。そして「女性は性を自由に楽しむ権利がある」というのは前提として個々の大人の女性が「恋愛や性を楽しむと同時にコントロールできる」ことになっているのです。寄稿に賛同した女性達からすると女性を子供扱いしたり特別な保護対象にしてしまうことは「性の自由」「男女の平等」という観点から好ましくないとなります。このほかにも運動が表現の自由に及ぼしている影響にも懸念を示しています。
「自由、人権、規制」のバランスは現代リベラリズムが抱える難しさの一つで、ある種の人権を擁護すると、別の人権とぶつかってしまい、ときにリベラル勢力が人権の一部を軽んじてしまうことすらあるのです。性的表現や差別表現の規制は表現の自由とぶつかりますし、報道の自由はプライバシーの保護とぶつかります。また現代においては経済的不均衡の是正や弱者をいかに保護するかといった点を重視しすぎ、結果的に個人の権利や自由、尊厳及び表現の自由といった、長年先人達が戦いを通じて勝ち得た「個人の権利」を守ることに対して評価が低くなってしまう難しさもあります。
今回の寄稿は「自由を守ること」と「弱者・被害者を保護すること」をいかに両立させるかという課題に対して#metoo運動を超えて価値観として「個人の権利」とどう向き合うかという重要な問いを我々に投げかけています。今後全文の翻訳が公開され日本でも活発な議論が行われることを期待します。
最後に日仏文化・伝統の違いから寄稿文における詳細には理解し難い部分もあるので、簡単に留意すべき点について以下に記しておきます。
- 日仏でパーソナルスペースの違いやボディタッチなどのへの反応の違いがあるようなので、細かい例はあくまでフランスにおける例となります。
- 日本ではそもそもフランスやアメリカほど#metoo運動が加熱しているということはありませんので、指摘自体が日本に同じようには当てはまらないと思われます。
- 日仏で年功序列の考えに大きな違いがあり、会社で「先輩」が「後輩」の上位にくるという概念が希薄です。フランスでは「権力」を持っているのは直属の上司であり、年上全員に気を使う必要などありません。
- 言い寄られたときに厳しい拒絶反応を示したことへの反応が日仏で違う(ような気がします)。
- 日仏で肉体と精神の違いに関して感覚が違う気もこの寄稿文を読んで感じました。