Biography

  • 1975年〜

    幼少期

    1975年6月7日、父与謝野達と母与謝野和子の間に三人の姉の下の長男として生を受けました。父方の伯父は与謝野馨、母方の祖父は大島秀一(主婦と生活社設立者、元衆院議員)と政治に縁がありそうな家庭でしたが、逆に母の政治アレルギーが強く、全く政治と無縁の生活でした。

    生後間もなく父の転勤で家族でフランスに二年間住みましたが、記憶は全くありません。ただ家では日本に帰ってきてからも姉達はたまにフランス語を使っていたので、なにも解らず困りました。


    中学までは東京都の東久留米市に住んでおり、典型的な西武線沿線の子供時代を西武ライオンズを応援しながら過ごしました。

    家族全員がカトリックの洗礼を受けており、毎週日曜は教会に通ってました。

  • 1989年〜

    中学生時代

    1989年バブル経済がピークのときに父の転勤で再びフランスに移りました。フランスは革命200周年で盛り上がっていましたし、6月の天安門事件で中国への世界中の印象が最悪の中、中国系アメリカ人のマイケル・チャン選手(現在錦織選手のコーチ)が史上最年少17歳で全仏オープンを制したり、ベルリンの壁の崩壊など、激変する欧州を目の当たりにしました。

    パリに1989年3月に中学二年生で移った当初は、インターナショナルスクールで英語で勉強していたのですが、父のフランス語教育への熱意から、その年の10月からフランスの現地校に行くことになりました。そもそも英語自体も日本の中学校で一年間勉強しただけですから、全く大したことないレベルでインターナショナルスクールに入ったときにも大変な苦労をしましたが、フランスの現地校もそれ以上に大変でした。おまけにフランスは小学校・中学校でも留年というのが普通にあるので、フランス語が全くできないので学年を三か四年落として小学生と勉強していました。毎週水曜日に詩の暗唱をしなければならず、父に手伝ってもらいながら苦労してフランス語の詩を暗記していました。そんな大変な生活を一年ほどやりましたが、父もこのままではフランス語以外の勉強ができなくなるので、パリの日本人学校に転校させてくれました。

  • 1991年〜

    高校生時代

    欧州の激変は父の仕事にも影響し、1991年に設立された欧州開発復興銀行に父は出向となり、今度はイギリスに転勤となりました。当初はカトリックの公立高校に通っていましたが、父は自身の経験から語学習得には寮生活が必須という信念を持っており、私も一年後に知人の紹介でいわゆる寮のあるパブリックスクール(英国で私立校を指します)に転校することになり、そこで高校生活を送りました。フランス語は現地校に通ったこともあり少しは上達していましたが、英語は相変わらずで日本の中学校卒業レベルしかなかったのですが、合計3年でなんとかイギリスの高校卒業資格(A level)を三科目(数学、経済、フランス語)ともAという好成績で得ることができました。

  • 1995年〜

    大学生時代

    高校を卒業し、日本に戻って帰国子女試験で東京大学文科II類に合格しました。同時にイギリスのケンブリッジ大学も受験し、1996年の入学資格を得ました。東京大学では二年生の前期までの一年半過ごしました、インタークラス(外国語既習クラス)に所属したので、学部に関係なく多くの友人に恵まれました。

     

    1996年に経済学で世界最高峰のケンブリッジ大学に入学しました。言わずと知れたケインズ学派の中心地で私が在籍した三年間だけでも1996年のジェームズ・マーリーズと1998年のアマルティア・センの二人がノーベル経済学賞を受賞していました。ケンブリッジ大学は学部レベルでは三年間かけてしっかり経済の基礎(ミクロ・マクロ・計量経済・経済史・政治経済)を幅広く教え、また各カレッジでは有名なスーパービジョンのシステムを採用しており、教授が二・三人の学生の小論文を添削し議論するのを週二回ほどおこないます。大変な三年間でしたが充実した学生生活でした。

  • 1999年〜

    社会人時代 / 東京

    社会人時代 / 東京

    大学を卒業後日本に帰国して、フランスの大手金融機関ソシエテ・ジェネラルの東京支店に就職しました。フランス語を話せるのもありましたが、それ以上にデリバティブに興味があったので、その分野に強いフランス系を選びました。ソシエテ・ジェネラルは日本では殆ど知られていないですが、株式デリバティブという分野では長年世界一と言われており、この分野においては有名なゴールドマンサックスをも凌駕する存在でした。

    ソシエテ・ジェネラルでは商品開発部に配属になりました。英語ではFinancial Engineerといわれる職種で、会社の花形部署でデリバティブを駆使した商品開発に従事しました。

  • 2002年〜

    社会人時代 / 香港

    2002年から一年間香港勤務を経験させてもらいました。入社三年で日本人の海外転勤を認めてくれることは外資の東京支店では極めてまれでした。東京に戻ってきてからは外資金融特有の若手にどんどん責任ある仕事をさせる企業文化の中、30代で株式デリバティブの東京における商品開発の責任者を務め、運用関連会社の日本拠点の立ち上げなど各種プロジェクトを指揮しました。

  • 2008年〜

    社会人時代 / フランス

    2008年の末かねてからの希望であったフランス本店勤務が認められ、三年間運用部門でファンドマネージャーの仕事をしました。東京支店では英語で良いのですが、パリでは基本全ての会話がフランス語になります。会議も最初はドキドキしましたが、やがて慣れてフランス語でプレゼンもできるようになりました。

     

     

    このころ伯父が自民党を離れ「たちあがれ日本」を結党します。
    政治と無縁で過ごしていた私ですが、このころ伯父から参院選の候補者がいたら紹介してくれと言われ、友人を複数紹介しました。ところが、党の側から是非立候補してほしいという人材が結局さまざまな理由から出馬を断ってきました。小さい党で認知度も低かったのも大きいのでしょうが、政治家という職業自体が敬遠されているというのを感じました。自分自身は当時フランス在住なので立候補は物理的に無理なので、まったく考えていなかったのですが、候補者の確保が政党にとって鍵となるというのを強く感じました。

    参院選も終わり、たちあがれ日本の将来を考えたとき、若手の候補者の確保が重要だと思いました。優秀な人材に立候補を承諾してもらうことが重要だと思い、それは長い時間をかけて個人と党との間の信頼関係を作らねばと思い、伯父に提案し党派の壁を越えた勉強会を作ることにしました。党とは切り離し、国家公務員も参加しやすくしました。結果、会合には弁護士、官僚、ジャーナリストなど多岐に渡る人材が集まり、TPPや法人税引き下げなどについて議論しました。残念ながらこの会は、その後伯父の入閣などで時間が取れなくなったり、そもそも私もフランス在住ということもあり、あまり回数を重ねることはできませんでした。しかしこの経験は自分が政策について勉強・議論することが本当に好きだということを気づかせてくれました。

  • 2012年〜

    現在

    2012年に帰国後、四年間東京支店でマーケティングや商品開発などをおこないました。金融の仕事は面白く、若くして責任ある仕事も海外勤務も経験させてもらいました。しかし40歳になり新たな挑戦をしてみたいという気持ちが強くなりました。

    2015年に自民党政経塾(11期)に入り政治やリーダーシップについて学びました。

     

    2016年には千代田区長選に立候補し、多くの人のご支援をいただきましたが現職候補に敗れました。
    現在、外資系証券会社に勤務する傍ら、いつの日か人々のお役に立てますよう捲土重来を期しています。